Masuk
道路に立ち尽くしている赤いポストに、真っ白な封筒を投函した。
あれほど愛していたのに、もうどうでもよかった。 ポストの奥で、コトンと小さな音が聞こえた瞬間、雨宮真澄は自由になった気がした。
これを受け取った後、彼がどう処理するかなんて、もう真澄には関係ない。
ポストから離れ、一歩、また一歩と後退する。濡れたアスファルトが靴裏に張りつくような感触を返してくる。この雨も、もうすぐ雪に変わるだろう。そう、彼に、心を奪われた夜の、あの大雪の日のように……振り返ればまだ赤い色が視界の端にあるのに、真澄はもう戻らないと決めていた。
たった2年間の結婚生活。
幸せだった時間は確かにあった。出会った頃の黒瀬司は穏やかで、彼女の話を楽しそうに聞いてくれる人だった。だが社長としての責務が重くなり、離婚した妻が、自分の友人と親しくしていることを知ってから、彼は「離婚した妻と残してきた子供たち」への未練や「血筋」や「未来の相続」という言葉を、悪気もなく会話の端々に混ぜるようになっていった。まるで真澄自身ではなく、彼の人生計画の一部として彼女たちが存在しているかのようだった。それでも、真澄は彼を愛していた。
今、目の前にある、その優しさが本心から来るものでないと気づきながらも、司の笑顔を見るたびに「まだ修復できる」と自分に言い聞かせてきた。転機は妊娠だった。
子供を身ごもったとわかった日、真澄は震えるほど喜んだ。新しい命は、二人の関係を結び直す糸になると思っていた。だが、その話をする前に、司の口からでてくるのは、二人の未来ではなく、「元の妻との子供たち」の話だけだった。その瞬間、真澄の胸の奥で何かが砕けた。胎内の鼓動を感じる前に、現実の重さだけが覆いかぶさった。仲がうまくいっていなかったのも事実だ。
仕事が忙しいと言っては、家に帰って来ない日が増えた。司は「会社に泊まった」「急な仕事で遠方に行った」などと、その都度言い訳をしていた。同じ家にいても食卓の会話は短く、寝室での距離は遠く、互いの沈黙は気まずさで埋まっていた。真澄が話そうとすると司に掛かってきた電話で遮られ、司が語る未来にはいつも「前の家族のため」が主語だった。だから彼女は決断した。
誰にも相談せず、ひとりで病院の予約を入れ、手術台に上がった。手術前の問診票に署名するとき、彼女は涙も迷いもすでに使い果たしていた。医師には「年齢が年齢なので、次に妊娠できる可能性が、限りなく低くなりますよ」と言われ、看護師には「お相手の男性ではなく、あなたの子供として、よく考えてください」と言われた。しかし真澄には、結婚したいほど愛している、司にも話していない、ある“事情”があった。それには、司の血を引く、自分との子どもを産むことはできなかった。真澄は、「母になるため」ではなく「自分でいるため」に選んだ初めての決断だった。
手術後、鏡に映った自分の顔はひどく青白かったが、心は不思議と静かだった。その静けさの中で、司に向けた手紙を書いた。便箋は一枚。インクは黒。文面は淡々としているのに、書き終えた瞬間、指が震えて止まらなかった。それは未練ではなく、長く抑え込んでいた自分自身の声が身体を通って外にあふれた反動だった。
雨は投函前から降っていた。
冬の雨は重く、あの日と同じ雪に変わりそうだった。だが、真澄は傘をささなかった。濡れた髪の先から滴る雫が、これまでの自分を洗い流してくれているような気さえした。
手紙の一部を、彼女は声に出さず唇だけでなぞる。
―この手紙を投函したら、私はあなたの世界から出ていきます。 責めるつもりも、憎むつもりもありません。 あなたはあなたの人生を、私は私の人生を、生きるだけです。
白い封筒はポストの中でもう濡れない。
だが彼女自身は、濡れたまま立っていた。最後にひとつだけ。 あなたを愛した時間は本物でした。 でも、あなたの愛を待ち続けた私はもういません。 私は自由になります。あなたも、どうかあなた自身のために生きてください。
赤いポストの前で、真澄は小さく息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に刺さる。それでも苦しくはなかった。今の彼女は、未来を誰かに託す人間ではなく、自分で未来を選び直す人間だったからだ。コトン という音は確かに終わりだった。
でも同時に始まりでもあった。さようなら。 雨宮 真澄
彼女はゆっくりと歩き出す。
信号は赤だったが、心はもう青になっていた。 踏み出す足取りは静かだが確固としている。濡れた路面に残る足跡はすぐ雨で消える。それでいい、と真澄は思った。消えるものに、もう縋らない。
残すべきは足跡ではなく、自分の人生そのものなのだから。美里が連れてきた弁護士は、年配の男だった。無駄のないスーツに、感情の見えない声。「では、条件を整理します」机の上に並べられた紙。そこに書かれているのは、感情ではなく数字だった。・家は売却せず、美里と子どもたちが住み続ける・ローンは司が引き続き支払う・新車は契約済みのため、そのまま司名義で支払い・養育費は、二人分で月額○万円・私立高校、大学進学時の学費は別途協議・慰謝料は請求しない代わりに、世間体を保つ条件「父親としての責任ですから」弁護士は淡々と言った。司は、紙を見つめたまま、言葉を失っていた。「……それは、離婚しても、今と何が違うんでしょうか」その問いに、美里は即座に答えた。「違うわよ。あなたは“家族と一緒に住まなくていい”の」その一言で、司は理解した。――自分は、金だけを残して追い出されるのだ。「それに」美里は続ける。「あなた、社長でしょ? 離婚して生活が苦しいなんて、周りに知られたら困るでしょ」世間体。それが、最後の条件だった。司は、笑うことも、怒ることもできず、ただ、静かに頷いた。その日、真澄はコピー機の前にいた。事務所の奥、応接室から、低い声が漏れてくる。――社長の声だ。意図せず、足が止まる。「……だから、それ以上は無理なんです」司の声は、いつもよりも、はっきりと疲れていた。「無理、では済まされません」聞き慣れない男の声。「お子さん二人の将来がかかっています」真澄は、息を止めた。「家も車も、全部こちらの条件で進めます。あなたが父親である以上――」その先は、耳に入らなかった。真澄の胸が、締め付けられる。(……お金の話)それも、ただの経費や支払いではない。――生活そのものを削る話。「……わかりました」司の声が、ひどく遠く聞こえた。真澄は、その場から、そっと離れた。聞いてはいけないものを、聞いてしまった。それでも、司がどれほど追い詰められているかだけは、痛いほど伝わってきた。夜。事務所には、司と真澄、二人だけだった。書類を整理し終えた真澄が、帰ろうとすると、司が、ぽつりと声を掛けた。「……真澄さん」振り返ると、司は椅子に座ったまま、動かなかった。「少し、話してもいいか」真澄は、頷いた。司は、しばらく黙っていたが、やがて、低い声で言った。「俺は……何の
その頃、真澄は、いつも通りの朝を迎えていた。事務所の鍵を開け、照明を点け、ポットに水を入れる。運転手たちが来る前の、ほんの静かな時間。けれど、その日は、何かが違った。司が、出社してこない。前日も遅くまで会社に残っていたはずなのに、その翌朝、姿が見えないことは、ほとんどなかった。「……珍しいな」真澄は、コーヒーを淹れながら、ふと時計を見る。それでも、連絡を入れる理由にはならない。(忙しいだけよね)そう、自分に言い聞かせる。昼前になって、ようやく司が戻ってきた。スーツは着ているが、ネクタイは緩み、目の下には、はっきりとした隈が浮かんでいた。「おはようございます」真澄が声を掛けると、司は一瞬だけ驚いたような顔をしてから、いつものように微笑もうとした。「……ああ、おはよう」だが、その笑顔は、どこか歪んでいた。真澄は、胸の奥がざわつくのを感じた。書類を渡そうとして、司の手元を見る。指先が、微かに震えている。「社長……?」思わず呼び止めると、司は「ん?」と顔を上げた。「……何でもありません」そう言い直したものの、真澄の視線は、司から離れなかった。午後。司は、ほとんど自分の席を立たなかった。電話が鳴っても、すぐには取らず、一度、深く息を吸ってから、受話器を上げる。声は低く、短く、感情を削ぎ落としたようだった。真澄は、事務作業をしながら、何度も司の横顔を盗み見ていた。(……なんか、違う)疲れている、というだけではない。怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。――追い詰められている。その空気を、真澄は感じ取っていた。夕方。真澄がコピーを取り終え、事務所に戻ると、司は一人、机に肘をつき、額を押さえていた。「社長、無理してませんか?」その言葉に、司の肩が、わずかに揺れた。「……大丈夫だ」そう言いながらも、顔を上げない。真澄は、一歩だけ近づいた。「大丈夫な人は、そんな顔してませんよ」その瞬間、司の手が止まった。しばらくの沈黙。やがて司は、ゆっくりと顔を上げた。「……真澄さんは、人の顔色を見るのが、上手だな」それは、褒め言葉のようでいて、どこか、助けを求める声にも聞こえた。真澄は、小さく首を振った。「違います。 社長が……隠すのが、下手なんです」司は、かすかに笑った。だが、その笑み
その夜。司は、子どもたちをリビングに呼んだ。テレビは消され、テーブルの上には、冷めかけた夕食の皿が並んでいる。「話がある」その一言で、莉子は嫌そうに顔をしかめ、湊はスマホを置かずにいた。「ママと、離婚する」司の言葉に、空気が一瞬で固まった。「は?」最初に声を上げたのは莉子だった。「なにそれ。冗談でしょ?」「冗談じゃない」司は、視線を逸らさなかった。「もう、一緒に暮らしていけない」湊が、ようやく顔を上げる。「……なんで?」司は、少しだけ言葉を探した。だが、誤魔化すことはしなかった。「もう、お金がないんだ」その言葉に、二人の表情が変わる。「え?」「家のローンも、車も、塾も、全部、パパ一人で払ってきた。でも、もう限界だ」莉子は、唇を噛みしめた。「だから、離婚?」「そうだ」司は、ゆっくりと頷いた。「今まで通りの生活はできなくなる。おこづかいも、スマホも、全部、見直さなきゃいけない」沈黙。次に口を開いたのは湊だった。「……ボクたちのせい?」司は、即座に首を振った。「違う。それだけは、絶対に違う」だが、子どもたちの目に浮かんだ不安は、消えなかった。その様子を、キッチンの奥から美里が無言で見ていた。翌日。美里は、早々に弁護士を雇った。「離婚は構わない」そう前置きしたうえで、・住宅ローンの負担・養育費の金額・世間体・子どもたちの進学への影響それらを、淡々と、しかし執拗に訴えた。「私、被害者なんです」美里は、涙ひとつ見せずに言った。「夫が、突然、家庭を放り出そうとしている」弁護士は、静かに頷き、メモを取る。「条件次第では、かなり厳しく戦えます」その言葉に、美里は満足そうに微笑んだ。一方、司もまた、ある人物を訪ねていた。会社が、何度も世話になってきた顧問弁護士。学生時代からの友人でもある。「……で、離婚か」司の話を聞き終え、彼は深く息を吐いた。「正直に言うぞ」「頼む」「相手は、完全に“金と権利”で来る。感情論は通じない」司は、覚悟していたように頷いた。「でもな」弁護士は、司を真っ直ぐに見た。「お前が全部背負う必要はない。今まで、十分やってきた」その言葉に、司の胸がわずかに熱くなる。「条件は、整理しよう。守れるものと、手放すものを」司は、静かに言った。「……俺は
翌日。司は、仕事を早めに切り上げ、まっすぐ家に戻った。 リビングには、美里がいた。どれくらいここで、夕食を出してもらって居ないのだろう、司はふと考えた。帰ると「あなたのゴハン無いわよ」そのセリフが即座に飛んでくる。今日も美里は、昨日と同じようにソファに座り、スマホを手にしている。「話って、なに?」司が席に着くより先に、美里が切り出した。 声には、わずかな苛立ちが混じっている。司は、テーブルを挟んで向かいに座る。 背筋を伸ばし、逃げ場を断つように、視線を上げた。「離婚したい」その言葉は、思っていたよりも静かに、口から出た。一瞬。 空気が止まる。次の瞬間、美里が笑った。「……は?」笑いというより、鼻で息を吐いたような音だった。「なに言ってるの? 冗談でしょ」「冗談じゃない」司は、即座に否定した。美里の表情が、ゆっくりと変わっていく。 笑みが消え、目が細くなり、声が低くなる。「理由は?」「……もう、限界なんだ」司は、言葉を選ばなかった。 選べば選ぶほど、ここまで来た意味がなくなる。「家のローンも、車も、塾も、全部、俺一人で背負ってる。相談もなく決められて、俺は、ただ金を出すだけだ」「それが家族でしょ?」美里は、即答だった。「父親なんだから、当たり前じゃない」司は、その言葉に、小さく息を吐いた。「……俺は、父親である前に、一人の人間だ」その瞬間、美里の声が鋭くなる。「なにそれ。誰かに吹き込まれた?」司は、わずかに眉をひそめた。「誰も関係ない」「じゃあ何? 女でもできた?」その言葉が出た瞬間、司の心臓が一度、強く打った。 だが、美里の目には、疑念よりも苛立ちが勝っている。「違う」司は、即座に否定した。「私はね、あなたが浮気してるとか、そういうくだらないこと、考えてないから」美里は、腕を組み、言い放つ。「問題は、お金よ」司は、言葉を失った。「離婚するなら、この家のローンはどうするの?子どもたちの学費は?生活費は?」矢継ぎ早に浴びせられる言葉。 そこに、「気持ち」は一つもなかった。「養育費は払う」司は、低い声で言った。「でも、全部は無理だ。今まで通りの生活は、続けられない」美里の目が、大きく見開かれる。「ふざけないで」初めて、感情が露わになった。「子どもたち、どうするの?
その夜、司は珍しく、まっすぐ家に帰った。玄関の灯りはついている。 リビングからはテレビの音が漏れていた。(いるな……)そう思っただけで、胸の奥がわずかに重くなる。 それでも、足は止めなかった。ドアを開けると、リビングのソファに美里が座っていた。 スマホを操作しながら、司を見ることもなく言う。「おそい」責めるような声でもなければ、心配する響きもない。 ただの事実確認のような一言だった。「仕事が立て込んでてな」司は靴を揃え、コートを脱ぎながら答える。 それ以上、言葉は続かなかった。美里はスマホから目を離さず、少し間を置いて言った。「そう。で、例の件だけど」――来た。司は、心の中でそう呟いた。「車、来月には納車できるって。頭金、早めに必要だから」「……ああ」「それと、湊の塾。夏期講習、追加で入れたから」「聞いてない」思わず出た言葉だった。美里は、初めて司を見た。 その視線には、驚きも、戸惑いもない。「だって必要でしょ?」当然だと言わんばかりの口調。「それに、莉子も言ってたわよ。クラスのみんな、もう新しいスマホなんだって」司は、何も答えなかった。頭の中で、昨夜、事務所で呟いた言葉が蘇る。――俺は、離婚する。この家に戻っても、その決意は揺らがなかった。 むしろ、確信に近づいていた。美里は続ける。「明日、銀行行ける? 私、昼は予定あるから」まるで、業務連絡のようだった。司は、ゆっくりと息を吸った。 そして、吐く。「……美里」名前を呼んだのは、久しぶりだった。美里は、少しだけ眉をひそめる。「なに?」司は、言葉を選んでいるようで、実はもう、選ぶ必要がないこともわかっていた。それでも、この瞬間だけは――慎重になる。「明日……話したいことがある」美里は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐに肩をすくめた。「なに? また仕事の愚痴?」「違う」その声は、低く、静かだった。美里は、司の表情を見て、ようやく違和感を覚えたようだった。 けれど、それを深く考えることはせず、ため息をつく。「明日ね。今日は疲れてるから」そう言って、ソファから立ち上がる。司は、それ以上、何も言わなかった。 今夜、切り出すつもりはなかった。――切り出すのは、明日だ。背中を向けて寝室へ向かう美里を見送りながら、司は、
夜の事務所は、昼間とは別の顔をしていた。蛍光灯を落とし、デスクライトだけを点けた室内は、静まり返っている。 外から聞こえるのは、遠くを走る車の音だけだった。司は、椅子に深く腰を沈め、天井を見上げていた。 ネクタイは外し、ジャケットは椅子の背に掛けたまま。 帰る気にはなれなかった。――家に、帰りたくない。それが正直な気持ちだった。机の上には、昼間、美里に突きつけられた請求書のコピー。 塾代。 車のローン。 スマホの分割明細。一枚一枚を見つめながら、司は思う。(俺は、いつから“家族”じゃなくなったんだろう)不仲になったのは、最近のことじゃない。 怒鳴り合いが増えたわけでもない。 浮気を疑われたこともない。ただ、感情が存在しない関係になっていただけだ。「……疲れたな」声に出してみると、思った以上に掠れていた。机の引き出しを開けると、古い写真が出てきた。 創立当初の会社の前で、美里と並んで撮ったもの。 笑っている二人。その写真を見て、胸が痛む――ことはなかった。代わりに、こんな感情が浮かんだ。(ああ……もう、戻りたくない)それは後悔ではなく、確認だった。司は、スマホを手に取った。 画面を開けば、真澄の名前がすぐに目に入る。――聞いてほしい。 ――誰かに、わかってほしい。そんな衝動が、一瞬、胸を突き上げた。だが、司は画面を伏せた。(ダメだ)今はまだ、誰にも言えない。 真澄に話せば、きっと優しい言葉をくれるだろう。 それが、どれほど救いになるかも、わかっている。それでも。(これは、俺一人で決めなきゃいけない)司は、立ち上がり、窓の前に立った。 夜の街の灯りが、静かに瞬いている。――離婚。その言葉を、頭の中でゆっくりとなぞる。恐怖は、なかった。 不安は、あった。だが、それ以上に――安堵があった。(やっと、終わらせられる)美里の顔が浮かぶ。 怒るだろう。 責めるだろう。 金の話を持ち出すだろう。それでもいい。もう、引き下がらない。司は、深く息を吸い、吐いた。「……俺は、離婚する」誰もいない事務所で、そう呟く。 その言葉は、空気に溶けて消えたが、司の中では、はっきりと形を持って残った。机に戻り、手帳を開く。 明日の予定の横に、短く書き込む。――「話す」それだけで、







